兵庫県の混乱は未だ収束する気配はなく、正直なところ県民の一人としてのこの問題への関心は薄れつつある。一方で大学赴任から昨年まで兵庫県の各種審議会などで仕事をしてきた時のことを振り返ると、この混乱は昨年からのことではなく、知事交代から一貫して続いてきたことと感じる。そしてそれはその職にある者の資質だけではなく、むしろ組織的な要因も大きいのではないか。
県民の分断を招いている様々な言論がある中で自分自身がいま最も思うことは、都道府県の存在意義が低下しているということである。選挙制度を始めとする地方自治制度が現在の国民の価値観や情報化などの社会変化に対応していないことは明らかであるが、一方で住民が都道府県に期待することは何なのか、住民と都道府県の関係が希薄になっているのではないかと思う。
もとより都道府県は地方公共団体の一つであり、住民自治の理念に基づく存在である。一方で地方分権改革で市町村優先の原則が明確となり住民生活に直結する行政サービスのほとんどは市町村が担うようになった。地方財政制度における優位性を活用した市町村への財政的な補助を始め、産業や観光の振興、公立大学の設置、大規模施設の建設など、現在多くの都道府県が取り組んでいることは住民の生活に直結することではなく、国がやっても市町村がやっても良いことばかりである。「都道府県って、私たちの生活にどんな関係があるの?」ほとんどの人はそんな感覚ではないだろうか。
自分たちに直接関係のない存在に関することについては無責任な情報伝達や感情的な投票行動が現れやすい。昨年の知事選挙で無責任な情報が氾濫し、それを元に自分達には直接利害関係のないことを前提として感情のままに投票する住民が増えたことは、ある意味で選挙対象の職の存在意義が低下していることの現れではないかとも考えられる。
都道府県はもう要らないのではないか。都道府県さえ無ければこんな混乱は起こらなかったのではないか。いや、市町村でも起こった可能性はあるが、ここまで全国の注目を浴びて多くの犠牲を出すようなの混乱になったのだろうか。
思い返すと自分自身はこれまで県庁での仕事に大きなやりがいを感じてきた。しかし市役所での勤務を経験した時、もしかしたら県での仕事は虚業だったのではないかとの思いを持ったことがある。
この時代における都道府県の存在意義は果たして何なのか。兵庫県の混乱からそのことに思いを巡らしているこの頃である。